どうも、みなさんこんにちは。
今回はBUMP OF CHICKENの『記念撮影』という曲について語っていきます。
この曲は2017年7月5日にデジタルリリースでiTunesなどで配信されたシングル曲です。2017年11月時点で音楽配信での売上は14万ダウンロード、リリックビデオのYouTubeでの再生回数は928万回を超えていたそうです。
日清カップヌードルの「HUNGRY DAYS アオハルかよ。」
のタイアップで2017年から2020年の今も続いています。
僕はこの曲がリリースされてYouTubeにも公開されて、すぐには聞き入らなかった記憶があるのですが、同年の9月くらいに何かがきっかけで「あれ、この曲ヤバすぎるぞ」ってなってから自分の中で勝手にBUMP五大神曲として崇めるほど格のある曲です。
そんなBUMP OF CHICKENの『記念撮影』について語っていきます!
記念撮影という曲とは
タイアップしたのが日清カップヌードル の「HUNGRY DAYS アオハルかよ。」と上述しましたが、このCMとBUMPのタイアップ内容を見て「うわぁ、MacBookとかスタバで開いて横文字大好きそうな意識高すぎのミーハー向けに媚びてきたなぁ」ってのが第一印象でした。たしか公開されたBUMPのリリックビデオもちゃんと見なかったような気がします。
ただ、CMの内容自体は人気アニメをこのCMオリジナルのテイストに変えて青春をテーマにさせた感じになっていて、まぁ内容自体は好きなんですが、向けられたターゲット層が目に見えてくるので敬遠しがちな僕なのでした。
ワンピースとのコラボも最近やっているのですが、これはワンピース自体のキャラの深掘りがそもそも原作の方でしっかりされているためか幅広い世代にウケているようです。僕も抵抗なく見れます。
しかしこの『記念撮影』という曲は別に日清のCMのような眩い青春を歌った曲でもなんでもなく、もっと暗い心の奥の感情、さらには生きることの意味を描いているものであると僕は感じます。言うなればわざわざ表立てて発言するような感情ではないのだけれど、こういう気持ちって誰にでもあるのではないかといった具合に心にドスンとクリーンヒットしてくるような歌詞なのです。
Googleで「記念撮影 歌詞 」で候補を見てみるとなんと「すごい」というワードが入ってきます。世間もようやくこの曲の凄さに気付いてしまったのでしょう。BUMPの中でもこの曲の歌詞はマジにやばいくらいにすごいんです。
この曲に限ったことではありませんがBUMPはそういう言語化できないのだけれど、誰でも一度は心では感じたことのある感情を言葉にするのが本当に上手いので他の曲も是非聴いて頂きたいです。
そもそもBUMP OF CHICKEN自身がなぜこの曲にだけリリックビデオを作ったのか、それくらいに歌詞に注目をしてほしいという意図があるのではないかと僕は推測します。
青春
僕は初見で聴いた時は失恋ソング?とそんな感じに思いました。いや、実際にそのニュアンスのことは歌っているので間違えではないと思いますが、全体的に通して聴くと、人間のもっと根本的な他者とのリアルな触れ合いだったり人生において発生し得るイベントだったりの普遍的なことを歌詞にされています。異性と付き合って、こういう気持ちになってしまうということですら、それも普遍的な人間としての生活であったり営みとして捉えています。
曲のタイトルの記念撮影ですが、自身と他人との思い出は写真に残せて、後から見返すことができますよね。それは付き合っていた恋人との思い出であったり、大切な家族との思い出であったり、親愛なる友との思い出であったり様々です。写真を撮っているその瞬間は同じ時間を共有していますが、写真として残った時には、もうその写真は過去を写したものとなります。あの時一緒に過ごした時間というものはもう二度と帰ってくることはありません。
その同じ時間を共有した人と、これから先、縁遠くなってしまったりするかもしれないし、まだまだこれからも一緒に過ごすかもしれません。ただ、確実に言えることは、その写真を撮った瞬間の時はもう二度と帰ってきません。
そしてその確かに存在していた瞬間を“今”として生きていた自分も当然いるはずです。その“今”って、わりと大切に出来ていなかったりします。後から思い返してもっと「ああしておけば良かった」と、多かれ少なかれ楽しかった時間を回想すると、そういう思いって誰しもあると思います。ただ、どうしても当事者になると、そのものの価値が当たり前のものになってしまい、なかなか大切に出来ていなかったりします。
1番のサビ前の歌詞にも
やりたい事がないわけじゃないはずだったと思うけど
思い出そうとしたら 笑顔とため息の事ばかり
とあります。なんかここのフレーズに感じるのは“今”を蔑ろにしてなんとなくな感じで過ごしている気がしますね。でも人間って今を中々大切にすることができない生き物だと思います。どうしても理性と本能があって、本能的に生きてる時間も当然多くて、わざわざ「今私は○○なのだ!」なんていちいち頻繁に噛み締めることはないと思います。それが集中しているような状態であれば尚更だと思います。意識は物事へ向くわけですから。
ちなみにこの「笑顔とため息の事ばかり」というフレーズが僕は初見で聴いた時からずっと妙に引っかかってしまっていたのですが、歌詞の最後のワンフレーズと繋がってくるんじゃないかなぁと思っていたりしますので、最後の方でここの「笑顔とため息の事ばかり」について含め語っていきたいと思います。
話を戻し、1番サビの最後の締めでは
君は知っていた 僕も気付いていた
終わる魔法の中にいた事
と歌っています。だらだらと過ごす2人の時間の中で、互いどこか今の関係の未来には薄々気付いているのでしょう。いずれ終わって、今とは違う全く新しい何かが訪れてくるんだろうと。
面倒な本音
嬉しい楽しい幻想は打ち砕かれながらも、日々の繰り返しのように惰性で過ごす様を歌詞にしているのが2番だと思うのですが、ここでも慣れからくるものなのか、決して相手をぞんざいに扱っているわけではないけど、どこか上の空だったり心ここに在らずな感じだったりになってしまうような、そんな感じが歌詞でつらつらと綴られているフェーズだと思います。
瞬きの向こうに いろいろいくつも
見落としたり 見落としたふりしたり
あれほど近くて だけど触れなかった
冗談と沈黙の奥の何か
ポケットには鍵と 丸めたレシートと
面倒な本音をつっこんで隠していた
2番のここらへんの歌詞がめちゃくちゃ分かりみが深すぎて初めて何を言っているのか意味を理解したときは、涙が出てきそうになったのは覚えています。「また俺のあの時の感情や思いや情景が歌詞になってるぅ」てな具合に、ていうかBUMPの藤原基央さんが書く詞は基本的に僕めちゃくちゃ共感できることが多くて、もう「藤くんイコールσ(゚∀゚ )オレみたいなところあるから」って友達とかにも言ってたりします(半分冗談ですけど半分本気です)
この何とも言えない人と人との距離感というか、わざわざ口に出すほどでもないかって具合のような、無視してるわけじゃないし聞き入れてはいるんだけどスルーしとこみたいな、この“感じ”を言語化できる藤原さんはやはり天才としか言いようがないです。
当然、自分が関わる人との相性だったり仲の良さだったり関係性だったりで、この“感じ”の度合いや頻度ってやっぱり変わってくるもので、付き合った女性でもこの“感じ”ばっかり出しちゃうなぁて人もいれば、自分の中から全然この“感じ”が出てこないような友人や恋人もいたし、本当に自分と他人の相性や関係値に依存してくるものだと思います。
それと自身の性格の問題ですかね。この“感じ”に僕は死ぬほど共感できるのですが、「え?なにそれ考えたこともない」って人も当然いるとは思います。
想像じゃない未来
2番サビ前から2番サビまでがまた個人的に怒涛の分かりみが深すぎるフェーズなのですが、一個一個拾ってったら全部の歌詞載せてしまうぐらいに、この『記念撮影』ていう曲に綴られている言葉の芯の威力が凄まじいのです。
固まって待ったシャッター
レンズの前で並んで
とても楽しくて ずるくて
あまりに眩しかった
このフレーズも初見から物凄く引っかかってくるところというか、思い当たる節が自身の人生にありすぎるというか、結局子供の頃というか若い頃というか、誰かに何かをしてもらって当たり前みたいなところがあって、人と何かを一緒に愉しむにしても相手次第なところは当然ありますが、ティーンの頃なんて、誰かと同じ時間を過ごす際にいちいち「一体どうしたら楽しくなるんだろう?」なんて悩んだりしませんよね。僕はしませんでした。なんなら物事はすべて受動的に自動的で楽しい時もあればつまらない時もあるし、仕方のないことだと思ってました。
楽しい思いをしようが、つまらない思いをしようが、ただ待ってるだけのキミってずるいよねって、現在の自分が過去の自分の姿を見た時に思う感情を描いた詞なのかなと僕は思ってます。現に僕はこのフレーズで即座に小学生・中学生時代の自分のことを思い出しましたからね。
そして記念撮影で撮った写真を見返すってことは現在の自分が過去の自分の姿を見ることと同じです。
2番サビもまた衝撃的すぎるフレーズなのですが、
想像じゃない未来に立って
相変わらず同じ怪我をしたよ
このフレーズに関しては僕自身の人生で死ぬほど味わっているようなことで、他人と接点を持って生きていると、自分が思っているような自分じゃなかったことに気づかされショックを受けたりして、ひどく落ち込み、何を改善すれば良いのか、どこをどうしたら良いのか、ひたすら自分の頭の中で解決方法を導き出して、でもそれはすぐに答えが出てくるものではないから、気が付けばそんなショックを受けたこともどんどん忘れていってしまって、またある時に同じようなシーンがやってきてまた同じショックを受けるわけです。
「これ、前もあったよね」て心の中で感じながら打ちひしがれて、それでまた解決方法を探すの繰り返しで、「想像してない」のだけれど「同じ怪我」をしてしまうわけです。
未だに僕はこんなことあるので本当に死にたくなったりすることもあります。器用に場当たり的に立ち振る舞うことができない人間なので、準備はしっかりしておかなきゃ何も出来ませんし、準備したとて何も出来ない可能性も有り得たりしますからね。
そんな歌詞を書ける藤原基央さん、毎日どんな感性で日々を生きておられるのかと想像するだけで天上人的な存在です。
ここまで繋がっている
リリックビデオでは2番サビが終わった後に少し間奏が入るのですが、そのときにただひたすらに風景写真が映し出されています。歌詞の内容はただひたすらに人間が感じ得ることが綴られているのに、映像としてはただひたすらに風景の写真だけなんですね。
言葉に直せない全てを
紙飛行機みたいに
あの時二人で見つめた
レンズの向こうの世界へ
投げたんだ
大サビ前の詞は、大人になって色々と目的や理由をつけて自分で何か行動を起こさなきゃいけないようなことが書かれています。そんな忙しない日々を送っていたとしても、ふと、あの若かりし青くさい記憶って蘇ってきたりするもので、当然それって「写真」としても残っていたりしますよね。
写真は目で見えるものを収める道具ではありますが、写した当事者にしか分からないことがあります。当事者はその写真を見てその時の心情だったり情景だったりが景色とセットで蘇ります。
すなわち、当時は言葉に直すことはできないような風景・姿見、さらには心情・情景を記念撮影することによって写真という形で残した未来の自分宛のメッセージでもあるというニュアンスと僕は解釈しました。
そして大サビの詞、
想像じゃない未来に立って
僕だけの昨日が積み重なっても
その昨日の下の変わらない景色の中から
ここまで繋がっている
また例の「想像じゃない未来」というフレーズがここで登場するのですが、想像していないことを悪いように解釈するばかりではありません。だれしもが想像通りの人生を歩んだ人なんていないと思います。何でこうなってしまったのかとか、絶望と思えた出来事とかでさえ、今の自分に繋がっているきっかけの1つとなっていたりするはずです。
例えばですけど、あの失恋があってそれを乗り越えた先に今の最愛の奥さんと結ばれることができたとか、あの時受験に失敗して第一志望の学校へ行けなかったけど、ここでの出会いや学びが今の自分を形作っているとか、人生ってそんな想像じゃないことだらけですよね。1つのシーンだけ切り取ってその人の人生って決まるわけじゃなくて、連続性の上に成り立つのが人生なのです。ここまで繋がっているんです。
この記念撮影の歌詞の序盤での無責任だけどただ楽しかった怠惰な恋も、今の自分を形作るきっかけにもなっているし、それはこれから先の未来のことにも同じことが言えます。今がちょうど絶望の淵なのであっても、この絶望の1シーンだけで人生は判断できません。
こういう考えは20年半ばくらい生きてくれば別に目から鱗みたいな考えでもないし、当たり前のように思えてくることだと思いますが、この記念撮影という曲の“写真”というテーマにしてそれを詞と音で表現できる藤原基央お前マジかと思いました。
この大サビのフレーズとメロディで僕は涙を流しました。天才です。
迷子のままでも大丈夫
大サビもう一発が、
迷子のままでも大丈夫
僕らはどこへでもいけると思う
と来るんですが、このフレーズは1番サビの詞でもあります。
繰り返し強調させたいフレーズであることは明白なのですが、1番では「まぁなんとかなるっしょ俺たち」みたいなニュアンスでの使われ方のように僕は感じるんです。成せば成る。成るように成る。
大サビでのこの意味はまた違ったように感じるんですけども、結局人間って最後は自分だけなんだよねって観念がすごく強く僕はあって、作者である藤原基央さんがどう思っているかは分からないので、飽くまで個人の意見となりますが、人間誰と一緒に過ごしてても、結局最後は自分が自分の頭で考えなきゃいけないんです生きることって。マツコDXさんも何かの番組で「最終的にすべての物事を判断するのは自分だよ」と言ってて凄く共感したの覚えてます。他人が誰かの為にしてあげられることにも限界があるし、自分がどう思うか、自分がどうしたいか、自立の上で成り立つ他者との人間関係です。
でも自分で考えて行動しろって、正解かどうかも分からないしどうしたらいいのか分からなくて怖くなりますよね。そう「迷子のままでも大丈夫」なんです。このフレーズの「僕ら」はかつて共に道を歩んでいたけど縁遠くなってしまった関係の人との状態でも言えるし、今一緒に人生を歩んでいる関係の人との状態でも言えることです。
正解なんて誰にも分からないし、1シーンだけ切り取って人生の判断なんて誰にもできません。自分が悔いのないように心残りのないように生きられればそれで僕は良いのではないかと思います。
曲の最後のフレーズは「今僕がいる未来に向けて」
上述したように、写真を撮ることで未来の自分への、言葉に直せない全てのメッセージになっているのだとしたら、これからだってそれは変わらないことでしょう。もっとマクロ的に考えた時、人間は必ずいつか死にますが、写真を残すことで今という時代をより鮮明に未来の人へ伝えることができます。
天皇の系譜とかめちゃくちゃ続いていますが、結局は言葉や伝聞や書物だけだと限界がありますよね。地層とか化石とかから分かることもありますが、景色を写せるってとても素晴らしいことで、精神的な意味を含めず、自分がいなくなった後の未来にも向けられる優れものだと思います。
この『記念撮影』という曲のテーマは、まさに人生そのものです。
僕だってそうだった
君は笑っていた 僕だってそうだった
曲の最後あたりにこのフレーズがくるのですが、
このフレーズが僕は物凄く引っかかってしょうがないのです。
序盤の方にも引用しましたが下記のフレーズをもう一回
やりたい事がないわけじゃないはずだったと思うけど
思い出そうとしたら 笑顔とため息の事ばかり
この
「笑顔とため息のことばかり」
「君は笑っていた 僕だってそうだった」
個人的な解釈全開になりますが、僕は本当に笑える場面でしか笑うことができないくらいカメラの前とかで爽やかな作り笑いができないのですが、女性と付き合うと、このことってわりとよく言われるんです。超プロ級のハイスペック彼女なら僕が本域で笑っているシーンを写真に収めてくれるかもしれませんが、普通のなんの準備もスキルもない一般的な人間が、ふいに本域で自然に笑ってる人の日常の笑顔なんて中々撮れません。
付き合ってる女性とマンネリ化してくると「あぁ、やっぱ俺って表情あんまり無いから飽きられるのも早いかも」とか思って「笑顔とため息のことばかり」になるんですよね。笑顔のことって失恋とセットみたいな、そんなところあります。
BUMPの藤原基央さんは物凄く情緒を描く天才で誰よりもそこに関しては繊細だと思いますが、表面的に垣間見れる表情はそこまで豊かな人ではないので、僕のこの感じと同じだと勝手に解釈してます。何せ曲を初めて聴いた時に僕が「これのこと?」ってすぐさま脳裏に思いました。
それと「君は笑っていた 僕だってそうだった」
このフレーズって表情が表面的にあまり出ない人ならよく分かる気がすると思うんですけど、「いや、俺も笑ってたし!」的なニュアンスです。シリアスな別れ話の時でも、楽しくなさそうとか勘違いされてフラれることもあって、表面的なものだけで人を判断しないでほしいですね~とは思うんですが。詞の「だって」の強調がとてつもなくエモいというか、「うわ、分かるわ」って感じでここの歌詞に涙ぐんでしまうんですが、それほどにこのワンフレーズに何か気持ちが詰まっていると思います。