どうも、みなさまこんにちは。
今回はBUMP OF CHICKENの『HAPYY』について語ります。
この曲は2010年4月14日に発売された10年前の曲です。
主に対人関係で心に深くダメージを受けているときに聴くと8割くらいの確率で泣くほどに僕にとって共感が強い曲なのですが、今の新型コロナウイルスの世相だとあまり人と触れ合う機会もないため、この曲について文章を書き起こすのにだいぶ推敲していますが、過去を思い返してしぼり出してみました(‘ω’)
歌詞解説だとか考察だとかそんな高尚なものではなく、この曲に対して僕が感じたことを感情の赴くままに綴った記事になっていますのでご注意下さい。
それではどうぞ!
目次
HAPPYという曲とは
ボーカルの藤原基央さんの友人の身に起きた出来事をもとにして作った曲と語っています。具体的な内容であったり出来事だったりを詞にしているわけではなく、あくまでもそれらの出来事を参考にしてそれを藤原氏のマインドに落とし込んだと、何かの雑誌のインタビューで目にしたことがあります。
BUMP五大神曲(勝手に自分の中で認定)に入る格と質でありながらも発売時はタイアップなしというなかなか世間の企業の目の付け所があまりなかったようです。まぁ企業タイアップだけが良さではありませんし、BUMP自体がテレビなどの大衆メディアへの露出が極端に少なかったりしますが、それでもBUMPというバンドの、藤原基央氏の紡ぐ言葉と旋律は揺らぐことなく変わらず高度で品質の高いところから心を揺さぶってきます。
スピッツのボーカルの草野マサムネさんもラジオでこの曲に関して言及していたようで、「泣きそうになったじゃなくてマジで泣いた曲」らしいです。
いや、BUMPってマジで泣ける曲が多いんです。映像なしの曲だけで泣けるんです。僕がここで紹介する曲だけじゃなくて本当にありとあらゆる曲が生きていく上での経験を便りに、心の悲鳴や自分でも気が付かなかったような本当の叫びや痛みが歌詞に綴られていて、「俺があの時感じていた気持ちが今まさにBUMPの曲で言語化されている」という状態なんです。
YouTubeで公式から『HAPPY』MVが見れます。
この曲がもう10年前の曲ということに驚きを隠せません。
僕が始めてこの曲を聴いたのは友人がカラオケで歌っていたときです。
まだ僕はBUMPを知らなくて初見で聴いたときは綺麗事ばかり並べられた詞だなぁとかいう感想でしたが、後にこの曲に何度も泣かされ何度も励まされて前向きな気持ちにさせてくれた、多感な悩ましい時期に人生を共に歩んでくれたような素晴らしい曲なのです。
バックグランドはこのへんにしておき、気になるフレーズとか見ていきましょう!
人生の主導権は他人ではなく自分自身
この曲の1番~3番までのすべてにこの「優しい言葉の雨」について詞のがあります。
優しい言葉の雨、誰かが慰めてくれたりする優しい言葉のことです。
雨で花や草木が渇きを潤してすくすく育つように、人間も生物的な栄養素を取り入れること以外にも、他人との関わり合いの中で優しくされたりすることはとても重要なことですね。みんな誰かの優しさの影に生かされているんです。
優しい言葉の雨の下で 涙も混ぜて流せたらな
優しい言葉の雨に濡れて 傷は洗ったって傷のまま
優しい言葉の雨は乾く 他人事の様な虹が架かる
1番~3番のそれぞれのBメロが優しい言葉の雨フェーズなのですが、ストーリー性も垣間見ることができます。最初は誰かの優しい言葉で癒されたり励まされたりしたいなぁっていうところから、それを得たとて何もないのではないかという、どんどん真理に近づいていく感じがあります。
そうなんです。どれだけ他人から優しくされても、自身にふりかかっている問題であったり悩みであったりは解消されることはなく、自分自身がどうにかしていかなくてはいけない問題なのです。
一時的に癒えることはあるでしょうが、心に負った傷というものは消えることはないし、誰かの救いの言葉なんかでぽんっと消えるわけがないのです。
結局何をするにしても最後は自分でしかなく、自身が心に感じる何かを把握しているのも自分でしかないわけで、人から貰った言葉は所詮他人事。次第に感動も感情も乾いていってしまいます。
BUMPの詞は自責の念のような、逃げたってどうしようもないぜみたいな歌詞が多く見受けられますが、この『HAPPY』に関しては直接的でそういった表現はしておりませんが、言いたいことは結局どれも同じで一貫しています。
そのあとに続く詞で、
これほど容易く日は昇る
と、どんなに暗い気持ちのままいても、夜は明けて朝がきます。
自分がなんの努力もせずとも朝は必ずやってきます。
そして新しい何かが待っていることでしょう。
流るる日常は自身を良くも悪くもアップデートさせてくれますから。
藤くんの紡ぐ詞の共通点として、自分自身のことは自分自身でしかどうすることもできないといったものが非常に多いです。ありきたりな言葉でリスナーを励ますのではなく、「そんなもんだから元気出せよ」と、そっち側から励ましてくれている遠回しだけれど元気をもらえますね。
人は怒るし喜びもするし
曲の中盤あたり、2番サビ前にこんな詞があります。
感じることを諦めるのが これほど難しいことだとは
この詞、このフレーズ、僕はマジでドンピシャに分かりみが深すぎます。
メンヘラ気味になってるときツイッターで何回つぶやいたことがあります。笑
というか言葉の意味が深すぎるというか、同じ日本人で同じ日本語を司って生きているはずなのに、なぜにこうも情緒的な言葉を紡げるのか、、天才としか言いようがないです。BUMPは文学!
この詞の真意は本人の言葉から直接聞かないと分かりませんが、僕がこのフレーズに対して毎度思うことは、いっそのこと感情なんて無くなってしまえばどれほど楽なことかってのを思う時が生きていて多々あります。
特に慣れない環境での緊張するような場面で、自身のパフォーマンス能力が著しく低下しているときに、感情なんてものがなければもっと本来の自分を出せるのにと思ったり、
恋している片思いのときに相手の反応で一喜一憂して嬉しくなったり悲しくなったりして情緒が揺さぶられるときにもこんなつらくて苦しいのならいっそのこと感情なんて要らない
みたいなね、そうであればどれだけ楽なことかって思います。
ただ、感情ってのは主に喜怒哀楽であらわされますが、怒りや悲しみが消えたところで果たしてそれは人間らしい心を持っていると言えるのだろうかと僕は思います。
よく女性が言う好きな男性のタイプとか理想の彼氏とか旦那とかっていう質問に対して「怒らない」みたいな回答を多々見受けられることがあるのですが、怒りへの感情の振れ幅がないのは果たしてそれは人間らしさなのでしょうかと僕は常々疑問に思っています。
むしろ怒りに感情が振り切れないのであれば、優しさの感情も欠落しているのでは?と思いますね。優しさの表層上の演技は上手い人なら上手くやれますし、「怒らない人」ってのは優しい演技をしているだけであって、本当は感情の起伏がほとんどなくて、人を思いやる気持ちも人を憎しむ気持ちも持ち合わせていない虚無なのではないでしょうか。
毎度思うのが「怒らない人」がタイプって言ってる人は機械と結婚するのがおススメです。ATMっていう超ハイスペックな機械がいるのですが、怒らないし冷たくないしお金持ちで幾らでも払ってくれると思います。
話がだいぶ逸れましたが、人間は感情的な生き物なのです。人によって感じる心の差、表に出てしまう感情の差はあるとは思いますが、何も感じないことは無理でしょう。
井上雄彦さん原作の『バガボンド』という漫画でも、この心の揺れ幅について深く描かれているところがあるのですが、人間誰だって心が常に心が真ん中にあれば動じず冷静でしなやかでめちゃくちゃ強いよって感じのことを語っています。しかし人間は感情のある動物なのです。
自分の都合の良い感情だけ顕在化させられれば素晴らしい人間になれることでしょうが、そんなことはできませんし、「感じる」ことってあまり意識的にするものでもないので、否が応でも感じてしまうことは諦められないし、人の言葉や行動で嬉しくなったりもするし嫌な気持ちにもなります。それでも受け入れて生きていくのが人間関係です。
愛しい空っぽ
人間は生まれてきたとき何も持っておらず、育ての親や家庭環境や遺伝子によって人格が形成されていきます。生きてきた分だけ色々な経験や知恵や肉体が積み重なって成長していくものですが、空虚さを感じることが二十歳を過ぎても普通にあるのは何故なのでしょう。
自分は何も持っていなくて、何もできなくて、ただ与えてもらうだけの存在でしかなく、他人と比べて空虚さが際立つように思えることがあります。
たしかに歩んできた人生の歴史があるのに、なぜ空虚な自分を感じるのか
それは人と比べてしまうからではないしょうか
自分は確かに労働をしてお金を稼いでいる という人でさえ
空虚な自分に苛まれて自己嫌悪に陥ってしまったり
お金を稼いで誰かの役に立って対価をもらっているのに
この虚しさは一体?
今の自分をゼロとして考えて
他人と比べることによって自分は全然ダメだと思い込んでしまう
いや、思い込みなんかではなく現にこのままではいけないという
もっともっと上を目指そうとしている向上心の高い人なのだと思います。
完璧主義と言いますか、ロマンチストと言いますか
この『HAPPY』という曲、歌詞を読んですぐに感じると思いますが、詞に出てくる少年少女は自殺を考えているような人物で、藤くんなりの考えで「つらいことも当然あるだろうけどそんな重く考えることじゃないやい」みたいなニュアンスが曲の全体像なのですが、
頑張り屋な人ほど、完璧主義者な人ほど、
ぽっきりと心が折れやすいものです。
ひょんなことで何かを失うタイミングもあったりするでしょう。
けど、そこにあるのは無なんかではなく空っぽがある
と、藤原基央さんは言っています。
無くしてしまったもの、失ってしまったもの
それすらも受け入れて
無くした後に残された 愛しい空っぽを抱きしめて
このフレーズが歌詞の中に2回も出てきます。
強烈すぎて正直ビビります。
〝空っぽ 〟 は残されているんですね。
ここのフレーズの前後には、
終わらせる勇気があるなら 続きを選ぶ恐怖にも勝てる
借り物の力でかまわない そこに確かな鼓動があるなら
自分なんてって思っている人へ勇気を与えてくれる詞だと思います
とても素敵で温かくて生命力に満ちた言葉です。
藤原基央さんだからこそ放つことのできる言葉なのだなと。
人生に絶望とか感じてこなかった人間じゃないとこんな言葉は出てきません。最初から幸せに満ちている人間もいるでしょうが、そんな人はこんなことを考える余地もない幸せな人生を送っていることでしょう。
他人にここまで適度な距離感で寄り添える藤原基央は天才以前に人間としてめちゃくちゃ優しい方なのだなとうかがえます。
こんなことを言うと「え?BUMP藤原って聖人君子なの?」みたいなニュアンスで捉えられがちですが、酸いも甘いも善も悪もすべてひっくるめた人間らしさのある人だからこの〝優しさ〟と僕は思っています。
闇があるからこそ光が際立つみたいな、例えばたまたま運よく失敗のない人生を歩んだ人に、人生の歩み方を学べるわけがありませんからね。
そういうものだろう
結局人間は忘れる生き物です。
いや、忘れるのではなく〝今〟を生きているので
次々と新しい情報に上書きされてしまうのでしょう。
悲しみは消えると言うなら
喜びだってそういうものだろう
この曲に何度となくこのフレーズが出てきますが
悲しいことがあっても時が経てばいずれ傷みもなくなり
また同じような怪我を負っても初めて受けた時よりダメージは少ないでしょう。
僕も全身が震えあがるほどにショッキングな出来事が起きたことがあり、とにかくその人たちが許せず毎日にように恨み憎しみ穏やかではない時期がありました。ただ、やはり3,4か月くらいしたあたりからもうどうでもよくなってきていて、思い出す頻度も少なくなっていきました。
心ない人に裏切られるってのは物凄くダメージが大きく心が痛みますが、時が経てば当時の心情ほど参っているわけではないですし、2,3年もしてしまえばそんなことはもはやどうでも良くなっています。
つまり悲しい出来事も消えるけど、喜びも消えるよ?
っていう逆からの藤くんらしい投げかけです。
ずーっと楽しいことだけが続くばかりの人生なんて誰にもあるわけなく
喜びもいずれ消えるし、悲しみだっていずれ消える。
ディズニーランドだとか好きなアーティストのライブだとかで超楽しい時間を過ごしても、次の日からまた憂鬱な仕事だってことなんてザラですよね。
だとしたら悲しいことが起きたくらいで人生を投げ捨てるまでの価値なんてないんです。浮き沈みしながら人生ってのはその終わりの時がくるまで続くのですから。
ただ、この『HAPPY』の歌詞にもあるように傷が消えたわけではなく、傷は洗ったって傷のままなのです。確かに自身の人生の経験値として刻まれてしまった出来事であり、それがトラウマに成り得る人もいますし今後の人生に上手く活かせる人もいるでしょう。
嬉しいことも悲しいこともある人生だから
片側の感情にだけ捉われず受け入れて
どうせいつか終わる人生という旅を
投げ捨てることなく気楽に歩いて行こうじゃないか
そんなめちゃくちゃ元気の出るポジティブな歌です。
なにより、人間関係で気分が沈むようなことがあったときに聴くと慰めてくれるような、あれ?俺のこと知ってたの?みたいな感覚に陥る素敵で素晴らしい曲です。